以前ある企業で個人別ヒアリングをした時のことである。彼は中堅社員であり過去何回かヒアリングをしたことがあった。1回目は彼が管理部門所属の時であったが、良く自分から話をするがなかなか話につながりがない、私からの宿題も完全には出来ていなかったことが多かった。人当たりは良いが頑固、言い過ぎだが「言うだけ番長」のようなところがあった。すなわち発言だけは勇ましいが行動が伴っていなかったのである。その後営業部門に異動となり彼と2回目のヒアリングの機会があった。最初は管理部門から営業部門へ移りなかなかなじめないものがあり、かなり悩みはあったようだ。しかしお客様からは可愛がられて、何となく憎めない人柄で、それとなく彼にお客様意識などをナビゲートし、その後は順調に成果を残されていた。それからかなり経って会社の方から、彼はそろそろ人事管理能力を付けていかないといけないと言うことで、3回目のヒアリングの機会が設けられた。その時、彼は何故3回もと不思議に思ったようであった。しかし暫くしてヒアリングを通じてやっと気づきを感じた言葉が出たのである。「自分は今までマイペースでやってきた、また何でも自分でした方が速いし後輩の特性を考えずに仕事も任せていなかった、以前から良く考えずに動いていたことが多かった」とのこと。考えていないので後輩には精神論や抽象的な言葉ばかりを言っていたのではないだろうかと言う、そして彼曰く「最近周りの人から変わったね!と言われます、この頃は思い付きで行動や発言をすることを出来るだけ控え、良く考えて行動し、後輩指導をしています」と言うではないか。後輩たちを見る目が違うし 必ず考えさせるようになったのだ、また考えさせた結果の検証も忘れない。例えば後輩のチーム2人がもっとコミュニケーションをとるべきと思っていたが、以前だったら「もっと話し合いをしろ!」で終わっていたが、彼らに考えさせるようにし向けたところ、必ず毎朝2人で自発的に話し合うようになったらしい。私は今まで彼が持っていたすぐ動くと言う、ある意味良い部分はなくさないようにして、自分を磨いて欲しいとお話したのを思い出した。その後後輩たちが大きな受注が出来たと、嬉しい便りをいただいたことが忘れられない。まさに彼は「気づける人は蘇る(ヨミガエル)」を実践されたのである。
2013/08/05 13:50
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あるセミナーで「ボトムアップとトップダウンの使い分け」についての質問を受けたことがある。一概にどちらが良いとか悪いとか言えないが「トップダウンは有事の時や創業期、ボトムアップは平時の時や成熟期」とお答えしたことを思い出した。そうすると先日の朝日新聞経済気象台のコラムに「会社は人生道場」と題したコラムがあった。自動車部品を作る会社の2代目社長が素晴らしいことを語っておられた。少しご紹介すると「会社の発展とは、人が成長していくことと同じ、最初の20年間は利益を上げることだけに集中した、経営者の心構えや、会計学など様々な研修会に参加した、だがどこかで歯車が狂い始め、いつの間にか<やらされ感>が蔓延してしまった、社長と社員、社員同士のコミュニケーションも薄れてしまった、社員達が生き生きしなくなっていたのだ、後半の20年間は<個人>重視に切り替えた、社長の名字の入った創業からの社名を変え、社員投票で社名を決めた、新社名に愛着を持ち、みんなで作り上げようと言う雰囲気が生まれた、指示待ちではなく何のためにこの仕事をやるのか目的を共有した、社員の自由度を認めると、社員自身も驚くほどの潜在能力が出てきた、前向きになり、自ら行動し、利益につながり始めた、会社は一人ひとりの人生を預かる<人生道場>だと実感した、会社の発展とはまさに一人ひとりの成長の上に成り立っている」と述べられていた。この経営者のお考えは凄いと思うし、実践レベルの話は評論家の言葉と重みが全く違う。最近ブラック企業と呼ばれている会社や、従業員を単なるコストと捉えている会社、また追い出し部屋なる部門を作っている会社など、いろいろと報道されているが、このような会社の永続的発展はあり得ないと感じる。また社員が経営者に対して、対案を持って「NO!」と言えない風土では生産性も上がらないし、モチベーションも著しく落ちる。政府の成長戦略で雇用の流動化が議論されているが、聞こえは良いが経営者がリストラしやすくするためのものであってはならない。非正規社員が2000万人を超え、就業人口の38%になると言う現在に危うさを感じてしまうのは筆者だけだろうか。
体質の強い会社は人が生き生きと働いているし、個人の成長なくして、組織の成長などあり得ない。衆知を結集して働き、生きがいを感じる企業こそがこれからの時代を生き残ると確信する。
2013/08/14 15:46
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学習性無力感とは心理学で「長期にわたって、ストレス回避の困難な環境に置かれた人は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなる」と言うものだ。心理学者のマーティン・セリグマンが思い付いた説である。私が講演会で良くお話しする内容は、実験でガラスの水槽の真ん中に透明の仕切り板を作り、片側には小魚のエサ、もう一方にはお腹を空かしたカマスを入れる。カマスは小魚を食べようとするが、透明の仕切り板にぶつかる、何回かする内に仕切り板を取っても諦めて小魚をとる行動を起さなくなったと言うものである。即ち「何をしてもダメなのだ」と言う無力感を学習するのだ。
そうすると少し意味が違うかもしれないが、先日の日経新聞に「誤った記憶 なぜできる」と言うタイトルでノーベル生理学・医学賞を受賞された利根川進氏の記事が掲載されていた。それはいったん体験した出来事が、思い出す際に異なる内容に置き換わってしまう「誤った記憶」ができる過程をマウスで再現されたのだ。「チームは遺伝子操作などの最先端の技術を駆使し、ある体験をしたときに働いた脳の神経細胞に、光を当てると、その体験を思い出すようなマウスを作った、そしてこのマウスを箱に入れ、まず箱の形を覚えさせた、そして違う箱に移した上で、嫌いな電機刺激を足に与えながら脳に光を当て、元の箱に戻すと、まるで電機刺激を受けたように身をすくめることを確認した、このマウスはどんな箱に入れても、脳に光を当てて元の箱を思い出させると、身をすくめるようになっていた」とある。誤った記憶=間違った思い込み、かも知れない。
私が新入社員の頃ある講演会に参加した時に講師から、人事担当者は是非フランクルの「夜と霧」を読んで欲しいと言われ懸命に読んだことを思い出した。
24歳の美しい妻をはじめ、家族すべてをナチスに殺され、自らも強制収容所に収容されてもなんとか生き抜いた心理学者の実話であり、彼には逞しい精神力があり「学習性無力感」の微塵もなかったのを思い出した。
我々の組織において「学習性無力感」が蔓延してはいないだろか?「どうせ言ってもムダ」「言うだけ損をする」「今のままで我慢する」「言っても答えがない」等々・・・・
私自身にも経験がある、上司に進言しようとするが、「おそらく聞いてはくれないだろう、まぁ言わないでおこう」と言う時期もあった。先日日米野球で4000本安打の偉業を達成されたイチロー選手には「無力感」など全く感じられない。
この混迷の時代こそ「学習性無力感」を無くし物事を諦めずにアタックしていくことが求められるのではないだろうか。
2013/08/25 09:46
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