先日知人から「使命とは命を使うということだ」と聞かされた。「使命感」と言う言葉が簡単に使われているので、「使命」と言う言葉を非常に軽く考えていたかもしれない。以前宮城県の村井嘉浩知事が「復興に命をかける」と言う本を出されたようだ、副題に「震災の犠牲者の死を決して無駄にはしない、元気な宮城、東北、日本を必ず取り戻す、これが私たちの使命です」とあった。そこで使命=ミッションについて考えてみたい。
私の人生で本気で「使命感」を持って取り組んだのは、倒産後継続店舗社員の「退職勧奨=勧告」であったような気がする。倒産とは明日から仕事がなくなり収入の道が断たれ路頭に迷うのである。私が経験した再建型倒産は優良継続店舗の人間は解雇出来ず、大幅な人数を削減しなければならない。数百名のリストの中から毎日「もう倒産したのだから、辞めて欲しい」と訴えなければならない厳しい役割であった。法的倒産であるから横に弁護士が陪席している(もめた時の証人として)。何日続いたであろうか?50歳代の今まで貢献していただいた社員の方々ばかりに対して「辞めろ」と言う厳しさは実践したものでなければ分からないだろう。皆なよく知っているのである、同期の人達もいる。毎日が苦痛で会社に足が向かない日が2ヶ月続いたのである。まさに「私の使命感」だったかもしれない。嫌なら簡単に自分が辞めれば良かったが、それは出来なかった。命をなくしたくはないが、まさに命を使いきったと思う。全く「貝」になられ一言も口をきかれない人、睨みつける人などがおられたが、「自分が辞めるのは簡単」だが「人に辞めてもらうのは地獄である」と痛感した。結果として数百名の方々が退職届を出された。倒産前には希望退職を募ったこともあったが「希望」と言う名がないと悲劇となる。最後には私自身も退職したのは言うまでもない。混迷の政治・経済の世の中「本当に使命」を感じて行動してくれる人達がどれだけいるのだろうか。評論家はずるいと思う、屁理屈を述べてそれなりにかっこをつけるが「後出しじゃんけん」なのだ。
スパイ大作戦の原題「ミッションインポッシブル=与えられた使命が実行不可能」を思い出したが、不可能でもやらねばならない時もあるのだ。
2017/12/16 15:27