私がそごうを退職した時に書いた自費本の冒頭部分をご紹介する。
「私にとって一生忘れることの出来ない長い日は、平成12年7月12日である。その前日11日の夜、あまり休みがとれていなかったので、家での久しぶりの休日であった。確か午後7時頃に本部から自宅へ電話が入った。
<至急、東京の本部へ来て欲しい!>とのこと、会社の債権放棄問題で世間を大変お騒がせしていた時なので、嫌な予感が頭の中を駆け巡った。何とか新大阪駅最終のひかり号がとれ、慌ただしく乗車するも、全く落ち着かなかった。
そして東京本部へ着いたのが、翌日の0時30分頃であった。裏口から会社のバッチを外して会議室へ赴くと、もう会議は始まっていた。顔も知らない弁護士・公認会計士さん達が何か説明をされている。冷房も入らず部屋は蒸し風呂状態で異様な雰囲気に包まれていた。手元資料を見ると、民事再生法の適応申請に関するものばかりである。<倒産したのだ>会議が終了したのが、午前4時30分頃だった。仮眠などとても出来ない、真夏の夜明けは早い、空はもう明るくなっていた。
そして始発の山手線に乗車し、帰神するというとんでもない事態となった。
早速自宅に帰り熱いシャワーを浴びてから、神戸店へ戻ったのである。
12日の18時に裁判所へ届けるため、その時間までは公に出来ないもどかしさは忘れられない。
倒産発表後は悪夢の連続、ご迷惑をおかけしたお取引先へのお詫び回りに明け暮れる毎日であり、厳しいお叱りの言葉を一身に受ける。イメージダウン・モラールダウンを少しでも回復しなければならない。その後の再生計画づくりのためのヒアリングと当面の業績を落とさないための必死の活動。10月25日の再生計画案提出後は関西店の閉鎖するお店の関係先へのお詫びと、従業員への説明会開催、そこでは社員から厳しい罵声を浴びる。一番辛かったのは存続店神戸の300名を超える退職勧奨の実施だった。毎日が地獄のような日々であった。そしてあっという間に新世紀を迎えてしまった」
神戸店長としてまた役員として倒産後の業務と再生認可の業務を最後までやり遂げ、終わるにあたり当然私自身も身を引くこととした。私にははやり言葉の「定年」や「定年後」「定年準備」なんて全く関係なかった。
現在は6度目の回り年を迎え、これから身を引く時があれば「自分で納得のいく身の引き方をしよう」と感じる今日この頃である。
2018/08/15 06:16